
引き続き西岡さんの事。前回彼女の作品や歌業について記したが、今回は彼女の背景にある米国日系人の短歌について記しておきたい。
米国日系移民の歴史を(漂流などを除いて)辿ると、明治元年に米国商人ユージン・バンリードを介しハワイとグアムへ渡ったと「元年者(がんねんもの)」呼ばれる農場労働者や、明治二年にプロイセン人の武器商人ヘンリー・シュネルと共にカリフォルニアへ渡り農業定住地「若松コロニー」を設立した二十名程の会津の人々まで遡る事ができる。
明治3年にはワシントンに日本公使館、サンフランシスコに日本領事館が開設。当時の米国国勢調査では米国本土に五十五名の日本人がいると記されている。明治政府が海外渡航を正式に許可した明治17年以降は多くの日本人が渡米し農場や鉱山、大陸横断鉄道の敷設などに従事。日系人が多く集まった地域では県人会や同好会が作られ、日本語の同人誌や新聞が刊行されていった。明治36年にロサンジェルスで創刊された日系新聞「羅府新報」もそんな媒体の一つである。(*羅府とはロサンゼルスの事)
太平洋戦争勃発後、十箇所の日系人強制収容所が作られ約十二万人の日系人が収容された。砂漠や荒野に作られた施設に収容され、内部では英語の使用と米国への忠誠登録が求められた。忠誠を誓うか否かの判断は収容された日系人達を政治的に分断した。同化政策を思わせる過酷な環境だが、米国の思惑とは裏腹にこの収容所内で米国日系人文学活動の花が開く。
・日系兵の死傷発表相次ぎてその高率に憤り湧く 綾織謙介
・年餘経て母ゆ届きたる便りの唯一言を繰返し読む 吉松博志
・てならひは思ふのみにて米国に経し歳月を今にして悔ゆ 桐田しづ
・正しさの通らぬ憤りもありなれて下心(ルビ:した)に堪へをり敵国人われは 仁熊登美子
「不忠誠組」が多く収容されたツールレイク強制収容所で野沢穣二が編集した文芸誌「鉄柵」より。日本語が制限された日系人は自らのアイデンティティーとして日本の文化や詩歌を求め、
ヒラリバー戦争移住センターにて
・丸山郁雄編「若人」
ツールレイク戦争移住センターにて
・藤田晃 編「怒濤」
・泊良彦 編「高原」
といった文芸同人誌を生んだ。
収録された手書きの詩歌やエッセイを読みながら、私は阪神大震災や東日本大震災後の新聞歌壇に多くの歌が寄せられた事や、郷隼人や坂口弘の日常詠との共通項を感じた。そこには苦しい生活を作品にし物語を与えたいという切実な思いや、整理のつかぬ感情を文言化し吐露する必要性があるのだと思う。
戦中に強制休刊されていた「羅府新報」は昭和21年に復刊。収容所を経験した野沢穣二が入社し「羅府文化」という文学ページを設け日系人の作品発表の場を提供する。誌面には振り出しに戻った生活の大変さを詠んだ詩や歌が並ぶ。移民故の生活自体の難しさや日本語書籍を気軽に入手できない環境、日本語を母国語としない世代の登場など、異国で日本語の文学活動を継続する大変さは想像に難くないが収容所で芽吹いた文学活動の精神と人材は「南加文藝」(昭和40年〜61年)、「南加文苑」(昭和64年〜平成1年)と引き継がれ平成2年に文芸誌「移植林」が創刊される。
短歌を詠む私にとって興味深いことだが「移植林」は短歌部門の同人が徐々に増え、誌面のバランスを取る為に創作部門と短歌部門で分割された。創作部門は「新植林」(杉田、清水編)で冊子を刊行し、短歌部門「移植林」(伊勢正直、山口千代編)は「羅府新報」を含めた日系誌に掲載される形で平成11年まで継続、平成12年からは西岡徳江氏が「新移植林」として引き継いでいた。
「羅府新報」に問い合わせた所、現在は西岡氏と「新移植林」で同人であった岡本啓三郎氏らが継続の為に尽力しているところだという。
日系移民の叙情の系譜として「新移植林」の今後の展開に注目していきたい。
※本記事を書くにあたって「羅府新報」の長島幸和氏、「新移植林」の中條喜美子氏から情報や資料を頂いた。お時間を割いてくださったことに心より感謝を記したい。